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4-2)時計の変遷

◎古代 (飛鳥〜平安時代)
  古代では、漏刻、日時計、時香盤が使われて
 いましたが、朝廷では漏刻を中心とした時間支配
 が行われていました。

◎中世 (鎌倉〜戦国時代)

  朝廷の権力が弱くなると漏刻による管理は廃れ、
 地方毎に日時計、時香盤によるローカル時間を使って
 いたと考えられています。
  1551年にフランシスコザビエルが大内義隆に西洋の
 機械時計を贈りました。これが、日本に機械時計が伝来
 した最初の記録です。その後の伝来時計で有名なのは
 メキシコ総督より徳川家康に贈られた斗景で、現在、
 久能山東照宮にある1581年製時計といわれています
 (重要文化財、現存する日本最古の時計、マドリードの
  ハンス デ エバロ作、 右下図を御覧ください)。

◎近世 (江戸時代)
 ヨーロッパから伝来した定時法の機械時計に対して、
不定時法に合った和時計が開発されました。
天保3年の「尾張志」によれば慶長3年(1598)年以前に
名古屋の時計師の先祖の津田助左門政之が朝鮮が家康に
献上した自鳴磬(じめいけい)の修理をして、模倣品を作った
との記述があります(文献6)。 このあたりが 最も初期の日本
製の機械時計と考えられます。この後、櫓時計、尺時計(7)、
枕時計、卓上時計、印籠時計など、様々な種類の時計が作られました。

 しかし、主流は、まだ日時計や時香盤であったようです。
 また、旅行用の紙製日時計が発明され、旅人が使っていた
ようです。なかなかのアイデア商品です。

◎近代 (明治〜大正)
 明治6年の定時法移行後に、機械式懐中時計が少しづつ普及しはじめました。 第一次世界大戦後から腕時計が主流となって行きます。
 欧米では1900年初頭には懐中時計が主流で、腕時計は殆ど出ていないのですが、日本では1902年(明治35年)に腕時計の使用が始まり、ちょっとしたブームとなったようです。ただ、腕時計といっても懐中時計に腕巻き皮を付けたものですが、欧米よりかなり早くに腕時計化がはじまりました。
 明治30年(1897)の読売新聞の漫画「当世百馬鹿」に腕時計を見せたがる馬鹿の図があり、1904年の日露戦争では日本の軍人が腕時計をした写真が残っています(文献3)。欧米ではごく一部の軍用腕時計が出来た頃なので、当時の日本人は新物好きというか、実に早い腕時計の流行があったようです。

◎現代(昭和〜)
 1969年のクオーツ時計の登場以降、機械式から急速にクオーツ化して現在に到っています。

 1990年代になって標準時を示す電波と同期する電波時計が現れ、更に精度が向上しています。

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      土圭 (清朝の図)
羲叔が、長い棒(表竿)と影尺を使って、夏至のときの太陽の影を測定している。
[ニーダム著『中国の科学と文明』第5巻, 思索社, 1976年, p.128.] (文献4)


参考文献: 1)大辞林 第二版 三省堂
        2)上口 等 No.3大名時計博物館報
        3)角山 榮  「時間革命」 新書館
        4)北海道大学・科学史研究室:web page  
          ({「時計」を解剖する}に土圭の詳しい解説があります))
        5)関口 直甫 「日時計」 恒星社厚生閣 P.10
        6)広瀬 秀雄 「暦」 東京堂出版
        7)日本古時計クラブ 尺時計(JAPANESE PILLAR CLOCK)

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腕時計を見せたがる
馬鹿の図(文献3)

4)日本の時計史
 

4-1)時計の語源
 「時計」は、中国周代に用いられた緯度測定器 「土圭」の当て字とあります(文献1)。 棒を立て、その影の長さを測るものが粘土で出来ていたので土圭と呼ぶことに由来します。
倭漢三才図会によれば土圭は、8尺の板を地面に立てて日影を測る日時計であると書かれています
(文献2)。

 この「とけい」という音に対して、日本では、土圭、
斗鶏、自鳴鐘、時計、斗景、土計、時辰儀
等の
文字をあてています。 
 鶏が時を告げるので斗鶏なんて良く考えていると思います。 自鳴鐘は外国から伝来した機械時計がベルの音の時報を奏でたことに由来します。
 因みに江戸時代、江戸城御用部屋の北にあった部屋は土圭の間とよばれ、和時計が置かれ、坊主が詰めておりました。

江戸時代の圭表儀
寛政暦書(文献5)
(冬至の時刻を決めるために
 使われた土圭)

日本最古の時計
(久能山東照宮)

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