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3)日本の時刻制度 
 
3-1)古代 (飛鳥〜平安時代)
 古代では、時間を管理することは王権の一つと考えられ、漏刻を置き、多数の役人を付けて時間を測り、をついて時を知らしめておりました。 都では、その鐘の音が時間の基準となり、それを基に時香盤に点火して時間を測っていたのではないかと思われます。 時香盤とは右図のように香を線状に置いて、その燃える速さから時間を把握する道具です。

 では、都の鐘が聞こえない地方では、どうしていたのでしょうか?
はっきりとしたことはわかりませんが、地方では独自に日時計を使って日の出、日の入りと南中を見、また曇りや雨の日には時香盤を使って時間を測り、寺等の鐘を鳴らしていたようです。
 平安時代の熊野詣での記禄にも時刻が記されていることから、当時の人は時計を持たずとも時間を把握していたようです。 こういった時刻は経度の差があるために地方毎に時差があったはずですが、古代では問題ないレベルの差だったのでしょう。
また、明け六つは江戸時代に手の甲が薄明かりの中で識別できる時刻と定義されていましたが、古代での定義は判然としません。地方によって定義が異なっていて、時間がかなりずれていたかもしれません。
 先に述べたように古代の時法については不定時法、定時法の両説があり、どちらかわかりませんが、今後資料が発掘等により出てきて解明されると面白いですね。


3-2)中世 (鎌倉〜戦国時代)
 平氏が倒された後、朝廷を中心とした時間支配は瓦解し、各地方のローカル時間制に移行したようですが、記録が乏しく良くわかりません。 (ご存知の方、御教示ください) 
古代が定時法であったとの説をとる人々は、この間に不定時法に移行したとしています。


3-3)近世 (江戸時代
 近世では、ヨーロッパから定時法の機械時計が入り、不定時法に合った和時計が開発されました。2丁天符と呼ばれる昼夜別の天符を用い、昼夜別の時間を測れるようになりましたが、大名等の一部の権力者以外は持てなかったようです。また、季節で時間が変わる上に時計の精度も余り良くなかったので、時計士が付いて機械を調整し続ける必要もあったようです。このことから、江戸時代の時間測定の主流は、まだ日時計や時香盤であったと考えられます。驚いたことに旅行用の紙製の日時計までありました。

 また、近世では、大寺院の梵鐘に加えて、時の鐘や太鼓が城下町毎に整備され、農村の小さな寺の梵鐘でも時を知らせるようになり、市民・農民の間に時間秩序が広まって行きました。大阪等の大都市では夜中まで時鐘がありました。人々は鐘や太鼓の音を聞いて時間を把握していたのです。


4)近代 (明治〜大正)
 明治4年より、正午の時報は大砲の空砲(ドン)により行われるようになりました。明治6年に定時法に変わった後も、時計が普及していなかったこともあり、各地でドンによる時報が行われました。 明治19年に日本標準時が定められるまでは、各地方ごとのローカル時間で時報をしていましたので、地方毎に時差がありました。
このドンは大正11年から予算削減のため順次廃止されました(東京では昭和4年に廃止)。 当時は時計は普及しつつありましたが標準時間を知ることが出来なくて不便であったため、 サイレンにより時報を継続していました。大正14年に放送が始まったラジオ放送の時報がその後の時報となりました。
(天文台からの無線報時は明治44年に開始)

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時香盤

参考文献: 1) 角山 榮  「時間革命」 新書館

和時計(櫓時計)
時楼
ドン(午砲)
  

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